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信仰がなくなるとき―疑いのなかで神を見つける10日間サンプル

When Faith Fails: 10 Days Of Finding God In The Shadow Of Doubt

10日中 6日

嘆きとは、ぼろぼろに傷ついたまま癒やされていない心があげる生々しい叫びです。嘆きは苦難をのぞきこみ、追い詰められ打たれ傷つき、よろめき、涙を流し、正義を求めて叫びます。表面的でパッケージ化された、安易な答えは受け付けません。絶対的な信頼性を要求し、答えられない疑問も恐れません。



嘆きは疑う魂の歌なのです。



ところが、私たちは嘆きがそこなわれてしまった時代に生きています。私たちは悲しみにどう対処すればよいのか分かりません。むしろ悲しみを否定することを選びます。私たちの国ほど薬を用いる国はありません。人が苦しんでいる映像や物語は私たちを動揺させます。私たちは娯楽やデジタル化された気晴らしでまひしています。快適さを手放せません。そして、苦悩のなかで神と人生に関する恐ろしい疑問が心に浮かぶと、私たちはそれを押し込め、隠してしまいます。しかし、それはそれほど長くもちません。川の水位がその堤防ぎりぎりまで上昇していくときのように、私たちはそれを否定することも、迫ってくる洪水を阻止するよう努力することも、困難のなかで生きる術を学ぶこともできます。



聖書は、まさにそのような体験をした男女の物語で満ちています。彼らはまわりで起こっていることを見て、不正を取り上げて、神に説明を求めて叫びました。ダビデは叫びました。「主よ。いつまでですか」(詩編13:1)。エレミヤは目撃した弾圧に圧倒されて、神に介入してくれるよう懇願しました。ヨブは絶望しました。ヤコブは格闘しました。モーセは抗議しました。アブラハムは疑いました。マリヤは問いかけました。イエスは涙を流されました。



信仰の対極にあるのは嘆きではありません。嘆きは悲しみに近づくときの信仰の姿です。神の正しさを強く信じれば信じるほど、それが見えなくなったとき、より激しく抗議するのです。



これこそ、イエスが友の墓で涙を流された理由です。



寂しいと言葉にしてよいのです。不満を訴えてよいのです。怒ってもよいのです。



すべてに答えをもっていなくてもよいのです。



神はそれでも私たちに走り寄り、私たちを抱きしめ、そこでともに涙を流してくださいます。私たちは泣きながら、その涙を流しておられる方の手に傷跡を見つけます。その体はさかれています。顔はそこなわれています。



その方も苦しまれたのだと、私たちは気づくのです。

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この読書プランについて

When Faith Fails: 10 Days Of Finding God In The Shadow Of Doubt

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この読書プランを提供してくださった、HarperCollinsに感謝します。詳細については、こちらのウェブサイトをご参照ください。 http://bit.ly/2Pn4Z0a

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